昭和48年02月11日 朝の御理解



 御理解 第58節
 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」

 これは、人に悪口を言われると言う様な事だけでなくて、どういう例えば、難儀な事になってもと言う事だと思うですね。どういう難儀な事であっても、しっかり信心の帯をしておけばよい、とこう言うのである。昔の偉い先生のお話に、信者の上にどういう、例えば難儀な問題が起っても、本人の信心がしっかりしておる時なら大丈夫と。おかげになると断言しても良いという意味の事を、教えられたと言う事ですね。何故だろうか。信者がおかげを受けていうなら楽をしよう、楽を求めると言う様な、いうなら信心に少し緩みが来た時が心配じゃと。おかげを受けておっても。
 ここん所本当に味あわせて頂くべきだと思うですね。おかげを頂いて信心が緩んでおる時が危ないのだ。どういうそれは難儀な問題を抱えておっても、信者の信心がしっかりしておる時なら心配はいらんと。それは例えばどういう風に見ておられて、そう言う事を言われただろうかと。もし私ならば、そこをどう言うだろうか、私もそれをそうだと思います。難儀な問題突発的に、こういう問題が起きたという時であっても、日頃のその人の信心が、熱心に出来ておる時ならです私は心配しません。
 けれどもその人の信心が、今緩んでおるという時には、現在どうも只おかげ頂いておると言うておっても心配ですね。だから本当にその人が、しゃんとするようなおかげを頂くようにという事を矢張り願うばかり。どんな問題を持って来ても、その人の信心がしゃんとしておる時なら私は安心。何故そういう風に安心出来るかと。それは今その人がその信者が、神様のお育てを頂いておる時と思うから安心なんです。もう是は間違いの無い事です。例えば鉄は熱しておる時に打てと。
 だから熱しておる時に、神様が打ちきたえて下さってあるんだと思うから、私は安心です。いや安心だけじゃない。むしろお礼を申し上げる。はぁよかとこ通っとるのと言うて、心の中で手を叩くような思い。けれども信心が緩んでおる時です。それは形の上におかげは頂いておっても、いつどういう事が起るか分からん。そういう時に信心を落したり、または、その為に信心を止めたりするような、自分の信心の不行き届きとか、不熱心である事は棚にあげて、そう言う事になる事があります。
 しっかり信心の帯をせよと。いつもしっかり信心の帯をしておかなきゃいけません。ですから皆さんもそこがです、本当に取次者私がそう思うように、皆さんもそれを感じられるようになった時、信心は素晴らしいと。銘々の信心は素晴らしい事になる。はぁこの度は、この手で鍛えて下さるなぁと言う事になるのです。苦しいけれどもこんなにして神様が磨けと言うて下さる、改まれと言うて下さる。
 又これによって鍛えて下さるなぁ、又一段と力が受けられるぞと言った様な、喜び楽しみの信心が出来るのです。大体銘々がそこん所迄、ひとつ信心を深めなければいけません。先日二三日前の朝の御理解の中にも申しました。私はある方の事をお願いしよった。その方は、はっきりしとるけれども、取っておる相手は誰か分からない、相撲をとっている。それこそ四つに組んでしっかり相撲をとっている。所がその方の褌が緩んでしもうた。自分もそれでひっかかる。
 そんなら相手に四っに組んでいる人も、いわば本当の相撲が取られんで困っておると言う様なお夢であった。その事をお話しましたら、後で先生あの褌の緩んどるとは、私じゃなかったでっしょうかと言うて何人もの人が問われました。だから緩んでおるなら、やっぱあなたですたいち、私は言うたことでした。いやそれはねちょっと立ち上りは、非常に気合をもって、立ち合うんです。例えば信心に本気で取り組むんです。けれども取り組んでおるうちにです、ちゃんと緩んでしまう。
 これではです例えば行司も困る。本当の相撲は取られない。例えばその誰か分からない方を、私と致しましょうか。私がです例えば折角そのような問題でお育て頂いておるのだけれども、その人の願いを例えば本当ではないけれどもです。それに私の方が合わせていかんならん。いうなら私が教導させて貰うのに、手心を使わんならん、人間心を使わんならん。私が遠慮せんならん。だから先生が遠慮して、私にしてあるという人は、まぁだ本当のいうならば、信心の帯びがしっかりしてないのです。
 昨日もある方がそれこそ、何十年という永い間心の中に思うておった事を、赤裸々に話しなさいと言われたと。それでもう本当にその事を全部ぶちまけてげんうたと、こう言うのです。話を聞きよってから日頃の信心はどこへやったのと。それは本人としては本当に血の涙の出るような、永い過去の事、その時分に、こうじゃったあぁじゃった言う事を、言うただけでも胸がすきっとしたと言うて、涙を流してその事をお礼お届けをしておられますけれどもね。
 あれが今本気でもちっと信心の帯がしっかりしとるなら、あんた馬鹿じゃなかのと、私が言うとこじゃろうと思うのです。何の為日頃信心の稽古しよるの。大海のごたる信心とか、泥のような信心とか、御事柄とか成り行きを大事にとか。成り行きを大事にしていきよったごたるけれどもいっちょん、しとらん証拠にはそれこそ、何十年の間の事を、それこそある坂な坂全部ぶちまけてしもうた。はぁ永年の間の事を言うてしもうて、自分も気持ち良かったろうけれどもです。
 一つも信心に消化してなかったと言う事になるでしょう。けれども私はその方のお届けを聞かせて貰うてからです。まぁこれからが大事じゃから、これからまぁいっちょ改めて、本気で合楽で言われる信心をせにゃいけんなという風にしか言えない。そう言う様な事を聞かせて頂いて、何の為に合楽で教えを頂いておるかと言えれる、言うて貰えれる信心にならにゃいかんです。それは人間じゃから失敗もあろう。
 けれどもそう言う所に、私がつがみ合わせていかん成らん様な事では、信心のお育ては頂かれんです。うんそうたいのそんならそこんとこばお願いしてから、これからはいっちょ失敗せんごたる風に、これからの所をいっちょ頂いていかにゃならんなと。相手の褌が緩んどるから、こっちの方も力を入れられないという訳なんです。信心の帯を本当に神様と本気で、信心に取り組ませて貰う。取り組んでおる時ならば、心配はいらん。けれども帯を緩めると、やはり取り次がせて頂く者がやはり不安に思う。
 どういう難儀な問題であっても、どういう難儀な問題を持ち込んできても。その人が日頃の信心の稽古が、しゃんとして出来ておる時なら、それは昔の偉い先生じゃなくとも、私でもそれはおかげ頂いたと、私も心配をしない。何故かと言うとその事によって、愈々この人が熱しておる時に叩かれておるのであり。熱しておるから今お育てを頂いておる時だから喜ばしい事である、お礼を申し上げる事である。そんならそういう事をです、銘々も分からせて貰う。
 そういう時に神様は、今度はこの手で鍛うて下さるなという時に、はずみがつく。いや鍛えて貰う楽しさがある。そこ迄行った時にです。私はしっかり信心の帯をせよという事は、そういう事だと思う。神がよく見ておると仰るのですから。神様がちゃんと見守って下さっておる中で起きて来る事であるから。どんな事が起ってもそれによって、お育てを頂くという信心が、感じられるような信心であるならば、今あなたは信心の帯をしっかりしておる時だと言う事になります。
 信心の帯をしっかりしておる時にはここにあります様に、例えば馬鹿と言われても、阿呆と言われても、いうなら乞食泥棒と言われても、腹を立てなと言うて辛抱するのじゃない。それこそ神様ご照覧の中に言われておる事であり、起っておる事であるから、むしろ心の中に本当にほくそ笑みと言うか、心の中にゆとりのある受け方が出来る。そういう信心を私はしっかり信心の帯をせよとは、そう言う事であると思います。しっかり信心の帯をして、そして信心には取り組まなければいけません。
   どうぞ。